13.2. チャールズ・ダーウィンと『種の起源』
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チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表した日、1859年11月24日に生物学は新たな段階に入った
ダーウィンはこの本で、2つの重要な概念を提示した
変化を伴う継承(進化)
祖先を継承して現生の種が出現したプロセス
自然選択
生物が進化するメカニズム
自然選択 natural selection
生物において、ある遺伝的特徴をもつ個体が、他の特徴をもつ個体よりもより多く生き残り繁殖するプロセス
集団 population
同時に同じ場所に生息している同じ種の個体の集まり
進化的適応 evolutionary adaptation
集団中にその環境に適した特徴の頻度増加を引き起こす
適応という言葉は、特徴自体を指すこともある
昆虫の擬態は、捕食者を避けるのに役立つ適応である
進化 evolution
集団の遺伝的構成が時間とともに変化したこと
ダーウィンの文化的、科学的背景
ダーウィンの時代に優勢であった生命観
地球の歴史は比較的短く、膨大な数の無関係な種が暮らしている
『種の起源』は本当に急進的だった
当時の科学的な見解だけでなく、西洋文化の最も深い根元をも揺るがした
種は不変であるという思想
アリストテレス Aristotle
種が不変で永遠であり、進化しないと考えた
ユダヤ教-キリスト教の文化は、この考えは創成期に関して聖書に書かれているとおりの解釈であるおしてより強固なものになった
すべての生物種の形が不変で、地球の年齢がわずか約6000年であるという思想は、何世紀もの間、西洋思想の知的風土を支配していた
ラマルクと進化的適応
1700年代中頃、フランスの博物学者ジョージ・ビュフォン Georges Buffonは化石 fossilの研究から、地球が6000年よりずっと古いかもしれないと提案した
彼は、化石と現代の動物との類似点も観察した
1766年にビュフォンは、ある化石の形は、類似した原生種の祖先形である可能性があると提唱した
1800年代初めに、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ド・ラマルク Jean-Baptiste de Lamarckは、現在の生物と化石との関係の最もよい説明は生物が進化するということである提案した
ラマルクは進化を、生物が生きている環境でうまくふるまう特徴をそなえるための改良と説明した
ラマルクは獲得形質が受け継がれると提唱した
しかし、単純な観察で、獲得形質の遺伝の反証となる確証が得られる
生涯、釘を重いハンマーで叩くことによって強さとスタミナを得た大工は、その強力な二頭筋が彼の子どもたちには遺伝はしない
ラマルクは進化の仕組みに関する誤った考えにより、種は生物と環境間の相互作用の結果として進化するという提案を行ったと記憶され、彼がダーウィンの登場する舞台を用意したという重要な事実を忘れがちである
ビーグル号での航海
植物学の教授がロバート・フィッツロイ Robert FitzRoy船長にダーウィンを推薦し、調査船ビーグル号に乗船
航海の主要な任務は、まだ十分にわかっていない南米の海岸線を海図に記すこと
ダーウィンは岸で数千の化石と現生の動植物の標本を収集することで、大部分の時間を過ごした
彼は各地の多様な環境に生息する生物の独特な適応に気づいた
独特な適応にもかかわらず、大陸全体の動植物は、ヨーロッパの生物形態とは非常に異なっており、たしかに南米大陸産であるという印を持っていた
南米の温帯地域に生息している動植物は、ヨーロッパの温暖な地域に生息している生物種より、南米大陸の熱帯地域に生活している種により密接な関係があるようだった
ダーウィンが見つけた南米の化石は、同大陸産の現生の動植物とは明らかに異なった種であったが、南米産の生物に類似した生物をもっていた
これらの観察により、ダーウィンは現代の鍋位の種がその大陸で祖先の種から特徴を受け継いだのではないかという考えが浮かんだ
ダーウィンは特にガラパゴス諸島での地理的分布に興味をそそられた
これらの離島に生息する大部分の動物は、世界の他の場所で見ることができないものであるが、南米大陸に生息している種に似ている
航海の間、ダーウィンはスコットランドの地質学者チャールズ・ライエル Charles Lyellによって新しく出版された『地質学の原理』に強く影響された
この本には、今日まで続いている緩慢な地質学的プロセスによって侵食された古代の地球の事例が示されていた
1mほど地理の海岸線を隆起させた地震を目撃して、ダーウィンは自然の力が徐々に地球の表面を変えていったこと、そしてその力はいまだに働き続けていることを理解した
そして、地震の結果として起こる造山運動により、アンデス山脈の山頂で集めた海産貝類の化石の存在が説明可能であった
ダーウィンはそして漸進主義の減速を地球上の生物の進化に適用した
ビーグル号が出帆して5年後にダーウィンが英国に戻る頃には、彼の経験と読書から地球とすべての生物がほんの数千年ほど前に創造されたという考えに深刻な疑惑をもった
ダーウィンは地球が絶えず変化していると悟った
ダーウィンは採集品を分析して、同僚と議論を始めた
他の科学者の論文を読んで意見を交わし、彼の観察、研究と思想を膨大な日誌に書き続けた
変化を伴う継承
1840年代の初めまでに、ダーウィンは進化理論の主な特徴を記述した長いエッセイを書いていた
彼はその考えが社会的混乱を引き起こすと理解していて、そのため彼のエッセイの発表を遅らせた
1850年代中頃には、アルフレッド・ウォーレス Alfred Wallaceは、ダーウィンのものとほとんど同じ理論を作り上げた
ウォレスがダーウィン西善選択についての彼自身の考えを記述した原稿を送ったとき、ダーウィンは「私のすべての独創性は、……打ち砕かれた」と書いている
しかし、1858年に、ダーウィンの同僚2人は、ウォーレスの論文とともに、ダーウィンの以前のエッセイからの抜粋を科学界に発表した
1859年の『種の起源』の出版により、ダーウィンは圧倒的な進化の証拠と、強固で論理的議論の世界を提示した
『種の起源』の2つの要点
第1版においてダーウィンは進化という言葉を使わず、変化を伴う継承と言及した
第二の要点は自然選択が変化を伴う継承のためのメカニズムであるということ
→13.3. 進化の証拠